東山魁夷
略 歴
明治41年(1908) 7月8日
- 神奈川県横浜市の海岸通り 誕生
大正15年(1926)
- 東京美術学校日本画科へ進学
昭和6年(1931)
- 東京美術学校日本画科を卒業。結城素明に師事し「魁夷」を雅号とする
昭和22年(1947)
- 第3回日展に《残照》を出品、特選を受賞
昭和31年(1956)
- 第11回日展に《光昏》を出品、日本芸術院賞を受賞
昭和44年(1969)
- 毎日芸術大賞 更には、文化勲章を受賞、文化功労者に選出される
昭和49年(1974)
- 日展理事長に就任
平成2年(1990)
- 長野市の城山公園内に『東山魁夷館』が開館
平成11年(1999)
- 老衰にて逝去90歳 従三位勲一等瑞宝章 授与
略 歴 (詳細)
1908(明治41)年
- 7月8日 船具商を営んでいた父「浩介」と妻「くに」の次男として神奈川県横浜市の海岸通に生まれる
1911(明治44)年
- 父の仕事の関係で兵庫県神戸市西出町へ転居
1921(大正10)年
- 兵庫県立第二神戸中学校(現・兵庫高校)へ入学
1926(大正15)年
- 東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科へ進学
1929(昭和4)年
- 第10回帝展に『山国の秋』を初出品、初入選
1931(昭和6)年
- 東京美術学校を卒業後、研究科へ進み、結城素明に師事して「魁夷」を雅号とする
1933(昭和8)年
- ドイツのベルリン大学(現・フンボルト大学)外国人語学部に留学
1934(昭和9)年
- 日本とドイツとの間で交換留学制度が始まり、第1回日独交換留学生として2年間の留学費用をドイツ政府から支給されることになり、ベルリン大学哲学科美術史部に入学
1935(昭和10)年
- 父危篤の報を受け奨学金支給期間を1年残したまま日本に帰国した
1940(昭和15)年
- 川崎小虎(結城素明、青木大乗らと「大日美術院」を創立)の娘すみと結婚。同年、大阪毎日・東京日日新聞社主催日本画大展覧会に『山』『海』を出品し佳作賞を受賞。紀元二千六百年奉祝美術展に種差海岸(青森県八戸市東部)の風景とそこにいる馬を取材した『凪』を出展した。
1941(昭和16)年
- 母が脳出血で倒れて療養生活に入る(1945年11月死去)、翌年(1942年)事業に失敗した父が急死する。
1945(昭和20)年
- 4月に母と妻を伴い高山(岐阜県)へ疎開。7月には召集令状を受け入営。熊本県で爆弾を抱えての対戦車体当たり攻撃の訓練を受けるうち終戦を迎えた。召集解除後は小虎、母、妻が疎開していた山梨県中巨摩郡落合村(現:南アルプス市)に一旦落ち着く。
1945(昭和20)年
- 母の死去後、千葉県市川市に転居、中村勝五郎(馬主として知られる実業家)から住居の提供など支援を受ける。
1947(昭和22)年
- 鹿野山(千葉県君津市)からの眺めを描いた『残照』が第3回日展で特選を得て日本国政府に買い上げられたことから世評が高まり、風景画家として立つことを決意する
1950(昭和25)年
- 第六回日展に『道』を出品、好評を得る。取材地は種差海岸(青森県八戸市)、中村が紹介したと思われるタイヘイ牧場に投宿して写生した
1953(昭和28)年
- 日展審査員となり、以後 歴任
1956(昭和31)年
- 前年の第11回日展に出品した『光昏』で日本芸術院賞を受賞
1960(昭和35)年
- 宮内庁から依頼されていた東宮御所の壁画『日月四季図』が完成
1961(昭和36)年
- 皇居吹上御所の新築にあたり宮内庁御用命画『萬緑新』を制作する
1962(昭和37)年
- イタリアのローマ日本文化館に『緑岡』
1965(昭和40)年
- 1月に日本芸術院会員に任命され、3月には日展理事に就任。日展に『白夜光』を出品
1968(昭和43)年
- 皇居新宮殿障壁画『朝明けの潮』落成、文化財保護審議会専門委員に就任
1969(昭和44)年
- 『朝明けの潮』の制作及び前年の「東山魁夷展京洛四季展」によって毎日芸術大賞を受賞、11月には文化勲章を受賞、あわせて文化功労者に選出される
1970(昭和45)年
- 東京国立博物館評議員に就任
1972(昭和47)年
- ’71年に唐招提寺御影堂障壁画の制作を受諾したことに伴い、この一年を鑑真和上と唐招提寺の研究にあてる。奈良・大和路の自然と歴史・文化の探求につとめ、障壁画の構想を練った
1973(昭和48)年
- 唐招提寺障壁画の準備のため、日本各地の山と海を取材。11月より東京、神戸、名古屋で「東山魁夷『白い馬の見える風景』展」を開催し、幻想の白い馬を主題とする連作を発表する。自然環境保全審議会委員に就任
1974(昭和49)年
- 日展理事長に就任。翌1975(昭和50)年に辞任
1975(昭和50)年
- エリザベス女王の訪日にあたり、昭和天皇から贈られる作品『春の曙』を制作。5月奈良 唐招提寺御影堂の第一期障壁画『山雲』『濤声』(約10年の歳月をかけて制作)が完成。6月3日に奉納される
1976(昭和51)年
- 4月、日本文化界代表団の一員として中国を訪問。8月、ドイツ連邦共和国大統領から功労大十字勲章を贈られる
1977(昭和52)年
- 4月パリのプチ・パレ美術館で開催された「唐招提寺展」に障壁画『山雲』『濤声』が展示されたのに伴い訪仏。8月、中国対外友好協会の招待で再度訪中。新疆ウィグル自治区の古代遺跡を写生する
1978(昭和53)年
- 北京と瀋陽で東山魁夷展が開催されたのに伴い三たび訪中、洛陽・南京・揚州を歴訪後、黄山にて写生。、パリで詩画集『コンコルド広場の椅子』原画展開催、シラク・パリ市長より金牌を贈呈される
1979(昭和54)年
- ドイツのベルリンとライプチヒで東山魁夷展が開催されたのに伴い訪独
1980(昭和55)年
- 第二期唐招提寺障壁画の『黄山暁雲』『揚州薫風』『桂林月宵』を唐招提寺に奉納
1981(昭和56)年
- 福岡・下関・鳥取で「東山魁夷唐招提寺への路展」、神戸で「東山魁夷・東と西を結ぶ展」、東京国立近代美術館で「東山魁夷展」を開催。唐招提寺鑑真和上像厨子絵『瑞光』を奉納
1982(昭和57)年
- 新潟で「東山魁夷唐招提寺への道展」、国立国際美術館で「東山魁夷展」、パリで「白い馬の見える風景」展、佐野美術館で「東山魁夷展-山河遍歴-」、神戸市立博物館で「東山魁夷・中国の旅展」を開催
1983(昭和58)年
- ドイツのミュンヘン、デュッセルドルフ、ブレーメンで「東山魁夷展」が開催されてのに伴い、3回にわたって渡欧
1984(昭和59)年
- 日展顧問に就任。西ドイツ最高栄誉であるプール・ル・メリット学術・芸術院の外国人会員に選任され、翌85年ボン大学にて徽章を大統領臨席の下で授与
1986(昭和61)年
- 日本芸術院第一部長に選任される。日中文化交流協会代表団団長として訪中
1988(昭和63)年
- 京都市美術館、名古屋市美術館、兵庫県立美術館で「東山魁夷展」を開催
1989(平成1)年
- オーストリア造形芸術協会、ウィーン・キュンストラーハウス名誉会員に推挙、また、西ドイツ・バイエルン州功労勲章を受章。東京で「ベルリン・ハンブルク・ウィーン巡回展帰国記念東山魁夷展」を開催
1990(平成2)年
- 長野市の城山公園内に『東山魁夷館』が開館
- 今上天皇の即位に伴う大嘗祭で皇居豊明殿を飾る『悠紀地方屛風絵(悠紀地方風俗歌屏風)』の制作を依頼され、11月の大嘗祭大饗の儀で披露
1992(平成4)年
- ユネスコ芸術賞の創設に対する貢献により、ユネスコ・ピカソ金メダルが贈呈される
1995(平成7)年
- 東京、京都、長野で「米寿記念東山魁夷展」を開催
1996(平成8)年
- 長野県内の高等学校106校に、「東山魁夷画集図録」を贈呈
1997(平成9)年
- 神戸、福岡で、米寿を迎えて『東山魁夷「私の森」展』を開催
1999(平成11)年
- 5月6日老衰のため90歳で逝去(鑑真和上と同命日)、従三位 勲一等瑞宝章 受賞。